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2016.08.05

シン・ゴジラ(ややネガティブな感想)

 今回は自分もフィクション屋の端くれ(しかも売れてない)であるのを完全に棚に上げて、ひとりの観客として好き勝手書く事にする。いろいろ怖いけどね。

『シン・ゴジラ』が「すごい映画」である事は間違いない。特に、少なくないゴジラファンが長年待ち望んでいた「敵怪獣も、超兵器も、余計なドラマもなく、現実にゴジラが出現したらどうなるかという想定」の顕現としての完成度は高い。
 人間が描けていないとか、市民の視点が欠落しているという批判については「最初からそういう要素をわかりやすく明示はしない」「現実の事象から連想・類推させるだけで充分」という方針を取っている訳で「はい。取捨選択の結果として描きませんでしたので、そっちを期待する方にはごめんなさい」で済む話だろう。「感動のラブストーリー」みたいに宣伝で騙そうとしてたのでもないし。
 少なくとも以後「リアルなシミュレーション」というアプローチは『シン』を越える、あるいは『シン』と全く違った切り口を採用しない限り、やる意味は乏しくなった。「リアルさを追求したゴジラは傑作になるはずなのに」という呪いはついに解けたのだ。
(ただし「よく出来たシミュレーション」というのはそれ故に、「予想の範囲に収まりやすい」という問題点と不可分。個人的な感想を言えば『シン』を観て「驚いた」のは最初に上陸したゴジラの異容だけ。もちろん様々な描写の精度や迫力、巧みさに「感心」はしたし、圧倒された場面もあるけど)

 しかし、それでも自分が『シン・ゴジラ』でモヤモヤしたのは「それでもつきまとってしまった、むしろそれだからこそはっきりした、怪獣映画である事のご都合主義」が気になったからだ。
 最終的にゴジラは「ヤシオリ作戦」で凍結される。作中ではかなり早い段階で「血液凝固剤の経口投与」という手段が採択され、巨災対はほとんど脇目も振らずその道を進んでいく。
 しかしこの方法が有効だという根拠は何かと言われると、実は案外説得力がない。テンポと迫力で押し切ってるだけだ。
 作中で「水から出たら自重を支えられないはずなのに平然と這いずり、更に陸上に適応して直立に変態する」「自衛隊の火力がほとんど通用しない」という「常識外れの存在」だと描写されている。しかも「餌を食べて化学的に消化」では説明がつかず「水や空気さえも原子物理学的に代謝してエネルギーを得ている」という事まで言及されている。
 そんな代物に、何故「薬剤の経口投与が有効」という確証を持てる?
 正直、あのゴジラに消化器官とか「口から飲み込んだ液体を吸収し、全身に巡らせる仕組み」が存在する事すら疑わしくないか?
(まあ、最初に鰓があって陸上適応してからは消えたので「呼吸している」のは恐らく間違いないだろうけど)
 もちろん作り手の意図は推察できる。外からの火力が通じない以上は内側から攻めるしかないとか、力でねじ伏せるのではなく知恵で無力化するとか、敢えてヒロイックな手段を避けるとか、八岐大蛇になぞらえるとか(ゴジラからも「利剣」が得られる)、最終的に凍結したゴジラとの共存のビジョンを提示するとか。
「作り手の意図がわかる」というのは、言い換えれば「理由が《物語の外》にあるのが見えてしまう」という事でもある。
 米軍の攻撃もほぼ通じないが、血液凝固剤は有効。空から接近するものは全部撃墜するけど、在来線爆弾が足下に近づくのは問題なし。エネルギーを使い果たすと一定時間黙ってその場に立ち尽くし、その状態でも破壊不可能。
 これらの要素は、作中で一定の裏付けをしていても、言ってしまえば「作り手が物語のために決めた設定」だ。
 地震・台風・隕石落下などの、実在の災害を「量」として増やすディザスターと違い、怪獣というのは何が恐ろしくて何が弱点なのかという「質」を作り手が決められるし、決めなければならない。
 その結果、あのゴジラは「生物学の常識を超越し、自衛隊の猛攻に平然と耐えるが、お薬を飲ませれば生き物だから効く」というご都合主義に至った。
『シン・ゴジラ』は「巨大生物災害をリアルなシミュレーションとして描く」という事の不可能性というか、構造矛盾を提示する結果になってしまったのではないか?
 既に『GMK』という「ゴジラを生物ではないモノとして描く」というアプローチはやられてるから、まあこうなったのも仕方ないとも思うのだけど。
(もちろんシミュレーションを追求した上でこの矛盾から脱出する方法もある。例えば「科学的知見に従った結果、ちゃんと通常戦力で倒せる」とか「人類のあらゆる叡智が通じず、結局倒せない」とか。それで面白いフィクションになるかは別として)

 もうひとつ、感情論混じりで『シン・ゴジラ』で気に入らないモノがある。ゴロー・マキ元教授だ。
 マキは、いくつかのフィクションで見られる「気まぐれ賢者」の典型である。
 物語が始まる前に真相にたどり着いているのに中途半端なヒントだけを残し、その結果主人公たちが振り回され、しかし作中では誰も「気まぐれ賢者」を否定・批難しない。主人公たちは結局「気まぐれ賢者」が事前に到達していた真相・正解を越える事ができず、追認して終わり。
 結局彼の「遺題」がヤシオリ作戦立案段階での最後のハードルを越える鍵になるのだが「真意が不明な以上、マキが日本や人類への恨みや憎しみで誤情報を遺した危険性は」というようなリスクを誰も気にしない。
 もちろんマキという人物に物語的に何が仮託されているのかとか、マキの失踪とゴジラ出現の関係とか、いろいろ推察な成り立つ。つまり要するに彼もまた、「作り手の都合」が透けてみえる存在なのだ。作者に贔屓され、批判されず、展開上必要な情報を任意のタイミングで開示してくれる不自然な超越者。
 例えばマキが変な形でヒントを遺すのではなく、未整理の膨大な資料を巨災対が精査して解決策を見出すとか、マキ仮説の誤謬を細胞や体液のサンプル現物と付きあわせる事で修正するとかだったら鼻につく不自然さはないし「未曾有の災害に対し、理想的で有能な人々がリアルタイムで懸命に対処する物語」としての筋もより通ったものになったのではないか。
 核を、日本を、人間を恨み、ゴジラを追求しつつ退場した「過去の賢者」が到達できなかった真理に、日本を愛して現在を必死に生きる有能だが当たり前の人々がたどり着き、最終的にゴジラと共存する世界を選ぶ方が「何もかも老賢者はお見通し」より、少なくとも私は好きだ。

 要するに私が『シン・ゴジラ』を好きになれない、ノレないのは「人間ドラマが不足」とか「庶民が描けていない」とか「政治的にどうの」の話ではなく「ゴジラ出現のリアルなシミュレーション」「有能な人々が必死に頑張る話」としての問題点が目についてしまったからなのだ。普通に「個人のドラマ」を描いた映画なら自然にスルーしてしまうレベルかも知れないが、『シン・ゴジラ』の方向性だからこそ際立ってしまったポイント。
 まあ『シン・ゴジラ』の魅力や作り手の狙いが「リアルなシミュレーション」「有能な人の理想的な奮闘」でないとしたら、私の感想も「人間ドラマ不足」と同列の的外れな代物なんだけどさ。

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コメント

薬剤の精製に1日足りません、てのも使い古されたシチュエーションでひねりがありませんでしたねえ。

投稿: 念力 | 2016.08.05 03:42 午後

>>念力さま
例えばあそこでも「情報リークを受けて海外企業が生産した薬剤を提供」「フランスとの交渉のためにただ頭を下げるだけじゃなく何かを差し出した」みたいな話があれば、更に粘り腰の効いた映画になったんじゃないかと思うのですよ。
そのあたり『シン・ゴジラ』は「すごいけど完璧でも無欠でもなく、まだまだやれる事はあったんじゃないか」と言いたいのです。

投稿: 葛西 | 2016.08.06 09:40 午後

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