2016.08.05

シン・ゴジラ(ややネガティブな感想)

 今回は自分もフィクション屋の端くれ(しかも売れてない)であるのを完全に棚に上げて、ひとりの観客として好き勝手書く事にする。いろいろ怖いけどね。

『シン・ゴジラ』が「すごい映画」である事は間違いない。特に、少なくないゴジラファンが長年待ち望んでいた「敵怪獣も、超兵器も、余計なドラマもなく、現実にゴジラが出現したらどうなるかという想定」の顕現としての完成度は高い。
 人間が描けていないとか、市民の視点が欠落しているという批判については「最初からそういう要素をわかりやすく明示はしない」「現実の事象から連想・類推させるだけで充分」という方針を取っている訳で「はい。取捨選択の結果として描きませんでしたので、そっちを期待する方にはごめんなさい」で済む話だろう。「感動のラブストーリー」みたいに宣伝で騙そうとしてたのでもないし。
 少なくとも以後「リアルなシミュレーション」というアプローチは『シン』を越える、あるいは『シン』と全く違った切り口を採用しない限り、やる意味は乏しくなった。「リアルさを追求したゴジラは傑作になるはずなのに」という呪いはついに解けたのだ。
(ただし「よく出来たシミュレーション」というのはそれ故に、「予想の範囲に収まりやすい」という問題点と不可分。個人的な感想を言えば『シン』を観て「驚いた」のは最初に上陸したゴジラの異容だけ。もちろん様々な描写の精度や迫力、巧みさに「感心」はしたし、圧倒された場面もあるけど)

 しかし、それでも自分が『シン・ゴジラ』でモヤモヤしたのは「それでもつきまとってしまった、むしろそれだからこそはっきりした、怪獣映画である事のご都合主義」が気になったからだ。
 最終的にゴジラは「ヤシオリ作戦」で凍結される。作中ではかなり早い段階で「血液凝固剤の経口投与」という手段が採択され、巨災対はほとんど脇目も振らずその道を進んでいく。
 しかしこの方法が有効だという根拠は何かと言われると、実は案外説得力がない。テンポと迫力で押し切ってるだけだ。
 作中で「水から出たら自重を支えられないはずなのに平然と這いずり、更に陸上に適応して直立に変態する」「自衛隊の火力がほとんど通用しない」という「常識外れの存在」だと描写されている。しかも「餌を食べて化学的に消化」では説明がつかず「水や空気さえも原子物理学的に代謝してエネルギーを得ている」という事まで言及されている。
 そんな代物に、何故「薬剤の経口投与が有効」という確証を持てる?
 正直、あのゴジラに消化器官とか「口から飲み込んだ液体を吸収し、全身に巡らせる仕組み」が存在する事すら疑わしくないか?
(まあ、最初に鰓があって陸上適応してからは消えたので「呼吸している」のは恐らく間違いないだろうけど)
 もちろん作り手の意図は推察できる。外からの火力が通じない以上は内側から攻めるしかないとか、力でねじ伏せるのではなく知恵で無力化するとか、敢えてヒロイックな手段を避けるとか、八岐大蛇になぞらえるとか(ゴジラからも「利剣」が得られる)、最終的に凍結したゴジラとの共存のビジョンを提示するとか。
「作り手の意図がわかる」というのは、言い換えれば「理由が《物語の外》にあるのが見えてしまう」という事でもある。
 米軍の攻撃もほぼ通じないが、血液凝固剤は有効。空から接近するものは全部撃墜するけど、在来線爆弾が足下に近づくのは問題なし。エネルギーを使い果たすと一定時間黙ってその場に立ち尽くし、その状態でも破壊不可能。
 これらの要素は、作中で一定の裏付けをしていても、言ってしまえば「作り手が物語のために決めた設定」だ。
 地震・台風・隕石落下などの、実在の災害を「量」として増やすディザスターと違い、怪獣というのは何が恐ろしくて何が弱点なのかという「質」を作り手が決められるし、決めなければならない。
 その結果、あのゴジラは「生物学の常識を超越し、自衛隊の猛攻に平然と耐えるが、お薬を飲ませれば生き物だから効く」というご都合主義に至った。
『シン・ゴジラ』は「巨大生物災害をリアルなシミュレーションとして描く」という事の不可能性というか、構造矛盾を提示する結果になってしまったのではないか?
 既に『GMK』という「ゴジラを生物ではないモノとして描く」というアプローチはやられてるから、まあこうなったのも仕方ないとも思うのだけど。
(もちろんシミュレーションを追求した上でこの矛盾から脱出する方法もある。例えば「科学的知見に従った結果、ちゃんと通常戦力で倒せる」とか「人類のあらゆる叡智が通じず、結局倒せない」とか。それで面白いフィクションになるかは別として)

 もうひとつ、感情論混じりで『シン・ゴジラ』で気に入らないモノがある。ゴロー・マキ元教授だ。
 マキは、いくつかのフィクションで見られる「気まぐれ賢者」の典型である。
 物語が始まる前に真相にたどり着いているのに中途半端なヒントだけを残し、その結果主人公たちが振り回され、しかし作中では誰も「気まぐれ賢者」を否定・批難しない。主人公たちは結局「気まぐれ賢者」が事前に到達していた真相・正解を越える事ができず、追認して終わり。
 結局彼の「遺題」がヤシオリ作戦立案段階での最後のハードルを越える鍵になるのだが「真意が不明な以上、マキが日本や人類への恨みや憎しみで誤情報を遺した危険性は」というようなリスクを誰も気にしない。
 もちろんマキという人物に物語的に何が仮託されているのかとか、マキの失踪とゴジラ出現の関係とか、いろいろ推察な成り立つ。つまり要するに彼もまた、「作り手の都合」が透けてみえる存在なのだ。作者に贔屓され、批判されず、展開上必要な情報を任意のタイミングで開示してくれる不自然な超越者。
 例えばマキが変な形でヒントを遺すのではなく、未整理の膨大な資料を巨災対が精査して解決策を見出すとか、マキ仮説の誤謬を細胞や体液のサンプル現物と付きあわせる事で修正するとかだったら鼻につく不自然さはないし「未曾有の災害に対し、理想的で有能な人々がリアルタイムで懸命に対処する物語」としての筋もより通ったものになったのではないか。
 核を、日本を、人間を恨み、ゴジラを追求しつつ退場した「過去の賢者」が到達できなかった真理に、日本を愛して現在を必死に生きる有能だが当たり前の人々がたどり着き、最終的にゴジラと共存する世界を選ぶ方が「何もかも老賢者はお見通し」より、少なくとも私は好きだ。

 要するに私が『シン・ゴジラ』を好きになれない、ノレないのは「人間ドラマが不足」とか「庶民が描けていない」とか「政治的にどうの」の話ではなく「ゴジラ出現のリアルなシミュレーション」「有能な人々が必死に頑張る話」としての問題点が目についてしまったからなのだ。普通に「個人のドラマ」を描いた映画なら自然にスルーしてしまうレベルかも知れないが、『シン・ゴジラ』の方向性だからこそ際立ってしまったポイント。
 まあ『シン・ゴジラ』の魅力や作り手の狙いが「リアルなシミュレーション」「有能な人の理想的な奮闘」でないとしたら、私の感想も「人間ドラマ不足」と同列の的外れな代物なんだけどさ。

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2016.01.17

バカ話「12人全員××シリーズ」(旧記事再掲)


「ギャルゲーとかで『12人全員××』というパターンがあるよな」
「全員幼なじみを始祖として、全員妹とか、全員動物の生まれ変わりとかいうアレだな」
「まあ、あれも萌え産業の袋小路というか。従来ならばキャラのバリエーションをまんべんなく揃えるのが普通だったのが、狭いマーケットでも確実にという事だろう。例えば全員妹というのは、お姉さんキャラが好きな人はあらかじめ捨ててかかっているが、妹萌えのファンをがっちり捕まえればペイできるという発想だな」

「年下に特化して全員妹があるのだから、逆に『12人全員おばあさん』というのはどうだろうか?」
「……それは何か? タイムマシンで過去に戻って若い頃のおばあちゃんと恋愛するのか?」
「いや。おばあさん萌えとしてはそれは邪道。あくまでも最初から最後まで老人で通すのがスジというものだ」
「じゃあリウマチに苦しみながらゲートボールに燃えるボク系スポーツおばあちゃんとか、メガネかけた文学おばあちゃんとか、縦ロール髪で華族の血を引く気位の高いおばあちゃんとかいるのか?」
「当然だ。で、その12人をクリアすると隠しキャラとして寝たきり老人と徘徊老人が攻略できるようになる」
「確かに隠しにふさわしい難度の高さだが、かなり人道的に問題のあるネタじゃないか、それは?」
「うーむ。やはりダメか」

「ここはもっと健康的にいこう。『12人全員女ターザン』だ。主人公の乗った飛行機がジャングルに墜落して、彼ひとりだけが奇跡的に助かり、密林の中で個性豊かな12人の美少女に助けられるのだ。これならばこの手のネタにありがちな『他の男はおらんのか』という問題が回避できる」
「ちょっと待て。『全員女ターザン』という事は、当然病弱でメガネっ娘の女ターザンとか、メカフェチの女ターザンとかもいるのか?」
「当然そうなるな。メインヒロインは幼なじみの女ターザン」
「主人公は墜落したばっかりだろうが!」
「幼い頃隣に住んでいた女の子が、小学校時代に飛行機事故で先に遭難していた事にすれば問題ない。劇的な再会という奴だな」
「女ターザンでありながら、なおかつボーイッシュな元気娘というのもちょっと想像しにくいぞ。それに女ターザンというのは露出度が高いのはいいが、あまりに狭い層にしかウケないのではないだろうか」
「むぅ。確かに」

「『12人全員アシスタント』ではどうだ? 主人公は初連載が決まったマンガ家。ところが、編集部の手違いでアシスタントが12人もいっぺんに送りこまれてしまう。しかも全員美少女」
「お、それはなかなかそれっぽいかも知れん」
「もちろん先生の呼び方がそれぞれ違うのだ。先生ちゃま、センセ、先生くん」
「それはちょっとヤだ」
「それぞれ背景とかメカとか資料調べとか、得意分野が違う。しかし仕事場が狭いのでいちどに働けるのはひとりだけ。そのマンパワーのやりくりをちゃんとシステムに盛りこめればゲームとして成立するはずだ」
「しかし、マンガ家のアシの仕事のバリエーションって12種類もあるのか?」
「食事とか気分転換とか応援とか……無理っぽいなぁ」

「職業系という事なら『12人全員医者』というのもありうるぞ」
「看護婦とかいうのならもうありそうだが」
「いや、あくまでも医者。主人公は12種類の難病に罹っていて入院している。で、各病気のエキスパートである12人の女医さんが治療に当たっているのだ。特定のひとりとだけ仲良くしていると、他の11人が治療してくれなくなり、死亡エンドに急転直下」
「ひでぇ」

「全員動物があるし、植物系としては『鉢植え生首育成』があるのだから、次はやはり『全員無機物』だろう。いっその事『12人全員ガス』とか」
「ガスでどうやってキャラ立てをするんだ!」
「軽い性格の水素ちゃん、他人と関わろうとしない孤独な綾波系のヘリウムちゃん、熱血バカの酸素ちゃん。何とかなる」

「まあ確かにキャラ立ちすると言えば言えるが、同じ無機物でももうちょっとマシなものはないか。例えば『12人全員自動車』とか」
「どういう話だ、そりゃ」
「そう、例えばだな。主人公はカーマニアの祖父から12台の名車を相続するのだ。まだ免許がなくて運転もできないが、彼はその車たちを非常に大切にしていた。しかし、車の魅力を理解しない親類たちは『売り払って分け前をよこせ』とか圧力をかけているわけだ」
「うんうん」
「そんなある日、ガレージに稲妻が落ちて、なんとびっくり12台の車がそれぞれ美少女に変身する。セクシーなフェラーリちゃんとか、高貴で気むずかしいロータスちゃんとか、凛々しい大和撫子のトヨタ2000GTちゃんとか」
「確かにガスよりはキャラ立ってるけど、大きな問題があるぞ」
「ふむ?」
「その企画だと、実在の車を登場させ、そのイメージと女の子の性格を一致させるからこそ面白いはずだ。しかし、こんなネタでポルシェやフェラーリが許可を出してくれると思うか」

「それはそうだ。では、もっと一般化して『12人全員家電製品』だ。ひとり暮らしを始めた主人公が用意していた12種類の家電製品に稲妻が落ちて美少女に変身する」
「また落雷かよ」
「メイド服の掃除機とか、浴衣の扇風機とか。ドテラの赤外線こたつ、かっぽう着の炊飯ジャー、白衣の電動歯ブラシ。そういうコスプレ系のネタも取りこめるぞ、これは」
「婦人警官のガス漏れ警報機とか、衛生兵の蚊取りマットとか?」
「家電製品としてはかなりギリギリなものを出してきやがったな」
「ガス漏れ警報機ちゃんは『他のみんなはご主人様のモノなのに、わたしだけガス会社のリース』とか、そういう秘かなコンプレックスを持ってるのだよ。で、警報機エンドだと引っ越しで離ればなれになったかと思った彼女と主人公が新しい住まいで再会するという美しいパターンが使えるではないか」

「しかし動物だの器物だの、ここまで来ると『仮面ライダー』や『戦隊』シリーズの怪人のネタみたいだな」
「すると次は『美少女悪人軍団』か? いや、さすがにそれはカドが立つので『12人全員世界の偉人』で行こう」
「何だよ、それは?」
「本物の偉人の生まれ変わりとかにすると車の時と同じ問題が起きるかもしれないので、こういう設定にしよう。主人公が子供の頃愛読していた12冊セットの偉人伝があって、それに突然稲妻が落ちてだなぁ」
「本が美少女になると? お前、稲妻さえ落ちれば何でも通ると思ってないか?」
「虫も殺せない平和主義者のガンジーちゃん、人体実験マニアのジェンナーちゃん、病弱な文学少女のアンデルセンちゃん。ちゃんとキャラ立てできるではないか。元ネタの時代や民族に合わせたデザインにすればビジュアル的にもいける」
「正直者で斧を武器にするワシントンちゃんとか?」
「そうそう……って、武器って何だよ」
「しかし、最大の問題はたとえいくら美少女に擬装しても本性は教科書とかで見知ったおっさんという点だな。キメのシーンになるとスタンドのように背後にガンジーの姿が現れたとして、それに萌えられる強者は少ないぞ」
「うーむ」

(本項は2002年9月に旧サイトにアップした記事をそのまま再掲したものです)

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すごい科学的に考えてみた(旧記事再掲)


※本テキストの内容は東映スーパー戦隊シリーズ、ならびに長谷川裕一:著『すごい科学で守ります!』『もっとすごい科学で守ります!』の内容を元に、葛西が勝手に妄想したものです。何ら公式設定とは関わりありません。


スーパー戦隊では「何かを浴びたおかげでヒーローになる」という例があります。アースフォースを浴びたチェンジマンに、妖精の力のターボレンジャー、バードニックウェーブのジェットマン、バイオ粒子のバイオマン。

ジェットマンとバイオマンの大きな特徴は、変身(スーツ着用)前から超人的なジャンプや動物との会話などの特殊能力を発揮している点です。しかし、もうひとつ変身前から超パワーを発揮している戦隊があります。素顔のままアース技を使いこなすギンガマンです。
『すご科学』的にアースとアースフォースが本来同じものであると考えるなら、生身で炎や電撃を放つギンガマンこそ、チェンジマンのあるべき姿だったのかも知れません。

さて、ここでひとつの疑問が浮かびます。この「生身の強化」の共通性は偶然なのでしょうか?

いえ、もちろん偶然ではありません。地球にアースがあるようにバイオ星にはバイオ粒子があるのです!

バードニックウェーブも太陽系第十番惑星で発見された物質から発生させたものですから、本来は十番惑星のアースフォースというべきエネルギーだったのではないでしょうか? そういえば『チェンジマン』で宇宙獣士デモスに改造されたアトランタ星人タロウはアトランタフォースを持っていました。「その星のアースフォース」ではなく、一般名称が必要です。仮にプラネットフォースと呼ぶ事にしましょう。
星力だと別な番組みたいですし。

バイオロボが自意識を持っているのはバイオ星人の人工知能技術が優れていたのみならず、星の命であるプラネットフォースをエネルギーに使っているためかも知れません。いわば人造星獣というか、疑似星獣として心を持ってしまったのですね。

また、バイオ粒子というからには物質です。恐らくはバイオ星人がプラネットフォース=バイオフォースを研究し、利用していく過程で粒子状に生成する技術を確立したと思われます。バイオ粒子を浴びた当人のみならず、子孫にも特殊能力が受け継がれたのは、物質であるため他のプラネットフォースよりも残留性が強くなっているのでしょう。

実は「バイオ粒子=ブラネットフォース」にはもうひとつ根拠があります。それが反バイオ粒子です。バイオ粒子を持つものに対して致命的なダメージを与える……何かに似ていませんか?
そうです。『ギンガマン』で黒騎士ヒュウガが使ったナイトアックスです。ゼイハブ船長の体内にある「星の命」を打ち砕ける唯一の武器・ナイトアックスはアースを持つ者が触れれば激しいダメージを受けるので、ヒュウガはこれを使いこなすため己のアースを捨てなければなりませんでした。これはバイオ粒子と反バイオ粒子の関係と酷似しています。
「星の命」も宝石状でしたし、プラネットフォースは物質化させるとプラスとマイナス、相反する二種類の物質に分離するのかも知れません。ナイトアックスは反バイオ粒子と同じ、マイナスのプラネットフォースの結晶から作られているのでしょう。

バイオ粒子と反バイオ粒子、星の命とナイトアックス。これらの反発に似た現象が、スーパー戦隊の歴史の中でもうひとつ存在した事を思い出してください。
フラッシュマンたちを苦しめた「反フラッシュ現象」です。
フラッシュ星系で育った者は他の惑星に適応できないというこの現象は従来謎とされていましたが、実はプラスとマイナスのプラネットフォースによる反発現象だったのです。
きっと宇宙のほとんどの惑星においてプラス寄りのプラネットフォースが強く発現しているのが自然なのに対し、フラッシュ星系だけはマイナスが常態なのです。そのため、この惑星系で長く暮らしたものは体内のプラネットフォース極性が普通とは逆に傾いて水や食物さえ受け付けないようになり、他の惑星では暮らせなくなってしまうのです。

では、なぜフラッシュ星だけがそんな例外的な惑星なのでしょうか?
ここで大胆な仮説がひとつ浮かび上がります。即ち、フラッシュ星人とは反バイオ同盟側のバイオ星人の子孫である、と。
バイオ星人は500年前にバイオ平和同盟と反バイオ同盟の戦争によって自らの星を滅ぼし、平和同盟側は他の星が過ちを繰り返さないようにバイオロボとピーボを宇宙に送り出し、反バイオ同盟は敵の残党を狩るためにバイオハンター・シルバを作りました。
しかし、この時にシルバを送り出した一派とは別に脱出した反バイオ同盟の人々がいたのです。
フラッシュ星人とシルバの姿を比較すれば共通点が多い事に気づくでしょう。鼻梁や眉の盛り上がりがなく、眉間から食いこむように流れるライン。胸部を覆うプロテクターなど。この事からも、フラッシュ星人とシルバの繋がりが見えてきます。
ピーボを騙そうとドクターマンが作った偽バイオ星人・ジョーイはほぼ人間に(そしてデンジ星人に)そっくりな姿ですから、バイオ平和同盟と反バイオ同盟は単なる思想的・政治的な対立ばかりではなく、種族的な抗争だった可能性もあります。それこそ原住バイオ星人と、入植してきたデンジ星人の子孫とか。
バイオマン系列のロボが横分割で、フラッシュマン系列が縦分割というのも対立の名残りだと思われます。この抗争に無関係な地球人や銀河広域クル文化圏のメカは、何のこだわりも持たず縦合体と横合体を併用できるのでしょうね。

おそらく反バイオ同盟の人々はフラッシュ星系にたどり着き、元々は不毛の地だったその星を可住惑星に改造して定住したのでしょう。ブルースターなどの4惑星が荒野だったり極寒だったりと、厳しい環境なのはまだテラフォーミングの途中だったからなのです。何といってもたったの500年前ですし。
そして、今やフラッシュ星人となったかつての反バイオ同盟人たちは、反バイオ粒子を用いた可住化のため、自分たちの体質がマイナスのプラネットフォース寄りになっていて、他の星には移住できない事を知ったのです。
「星間宇宙で困っている人がいれば積極的に助けるが自身は平和主義で、他の星には直接手を出さない」という彼らの特異なメンタリティは、フラッシュ星系から離れられない事に加えて、かつてバイオ星を内戦で滅ぼしてしまった反省から来ているのではないのでしょうか。
あるいは4衛星の可住化改造は、反フラッシュ現象に気づいた後で着手したのかも知れません。何しろ、他の星系に進出する事はできないのですから。
バイオ星の滅亡が500年ほど前で、フラッシュ星の英雄タイタンが禁を破って地球に来たのは100年前。年代的な矛盾もありません。

かつては相争い、ついには母なる星を滅ぼしてしまったふたつの勢力それぞれの「平和への願い」が地球に届いてバイオマンやフラッシュマンというスーパー戦隊となり、双方の技術が統合され、受け継がれていく……『すごい科学』的にはなかなか美味しい話だとは思いませんか?

ただ、問題はどの星にもプラネットフォースがあるのが当たり前だと、伊吹長官が「星王バズーを倒すには地球のアースフォースしかない」と考えた理由がわからない事でしょうか。おそらく特別に力が強いとか、特殊な性質を持っているとか、何か意味があるのでしょうけど。

(本項は2002年1月に旧サイトにアップした記事をそのまま再掲したものです)

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ロボットアニメ小史(旧記事再掲)

世間で何となく通用している(ように見える)「スーパーロボット物とリアルロボット物」という区分、あるいは「古き良き熱血ロボットアニメ」というような表現は有意なのだろうか? 以下『マジンガーZ』以降現代に至るまでの「TVロボットアニメ」の量的な変化に着目して少し考えてみたい。
 なお、原則として「地上波のTVアニメ」を対象として、主観が入りすぎないようにするために「その年にスタートした番組」の数をカウントし、ロボットアニメか否かがあやふやなボーダーライン上の作品についてはなるべく積極的に数に含めるようにした。

●1972年
 この年の末に『マジンガーZ』が始まる。『マジンガーZ』は確かにエポックメイキングな傑作だが、決して突然変異的に孤立した作品ではない。世は71年の『スペクトルマン』『仮面ライダー』『帰ってきたウルトラマン』などが口火を切った「変身・怪獣ブーム」の真っ最中だった。アニメでも『月光仮面』『ガッチャマン』『デビルマン』『アストロガンガー』など、その流れを受けた作品が頻出し、その中で『マジンガーZ』は生まれたのだ。「機械獣」は文字通り「怪獣」の変種と見るべきだろう。

●1973~4年
『マジンガーZ』の影響は、実はこの頃まだ顕在化しない。特撮では73年に(企画そのものは『マジンガー』より早かったとも言われる)『レッドバロン』や『ジャンボーグA』など「巨大ヒーローの一形態」としてロボットが導入されるが、アニメでは『ゲッターロボ』の開始が74年4月。実に『マジンガー』開始から1年3ヶ月が経過してからの事である。その半年後『マジンガー』は『グレートマジンガー』にバトンタッチ。同じ頃にSF大河ロマンを志向する『宇宙戦艦ヤマト』やタツノコお得意の肉弾アクション『破裏拳ポリマー』が始まっている。この時期、ロボットアニメはまだ「ダイナミックプロ&東映動画」組特有の「お家芸」でしかなかったのだ。

●1975年
 4月に『勇者ライディーン』が開始。東映&ダイナミック系以外による初のロボットアニメは『ゲッターロボ』のちょうど一年後、『マジンガーZ』から数えて2年以上が経過してからの事だった。また『ゲッターロボ』が『G』に、『グレート』が『グレンダイザー』に移行。さらにタカラがメインスポンサーとなって新路線『鋼鉄ジーグ』が開始。
 この年に始まったロボットアニメは4作品だが、製作会社・スポンサーとも新たな会社が参入し、ようやく「産業としてのロボットアニメ」の価値が認められたと言えよう。

●1976年
 76年にスタートしたロボットアニメは一気に7本。『ガイキング』『ゴーダム』『コン・バトラーV』『グロイザーX』『マシーンブラスター』『ガ・キーン』『ダイアポロン』(『ダイアポロンII』もある……一応)。本数ばかりでなく、製作会社・提供とも多数の新規参入が見られる。TBS、東京12チャンネル(当時)、テレビ朝日なども加わり、在京民放キー局全てがロボットアニメに手を出した事になる。
 また、早くも「巨大母艦+ロボット」「合体」「変形」「複数のロボットによるチーム」など、ガジェット的なバリエーションが広がったのも注目に値するだろう。
 加えて、前年に『ウルトラマンレオ』『仮面ライダーストロンガー』が終了し、子供番組の主流が特撮からアニメに傾きだした時代でもある。

●1977年
 新たに始まったロボットアニメは6本。数で言えば前年比横這いと見ていいだろう。『メカンダーロボ』『ギンガイザー』『バラタック』『ボルテスV』『ザンボット3』、そして『ダンガードA』だ。『ダンガードA』は同年夏に公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』で口火を切る「松本零士ブーム」とも関わっている。この「松本ブーム」と、同じ時期のスーパーカーブームの影響は、翌年の数字に露骨に現れる事になるのだ。

●1978年
 この年は僅か3本。『ダイモス』『ダイターン3』『ダイケンゴー』の「3ダイロボットアニメ」のみとなる。理由は前述の通りスーパーカーブームと松本ブームだ。77年後半から始まった「車モノアニメ」は4本。『グランプリの鷹』以外はいずれも短命に終わったが影響は無視できない。加えて、78年に開始した「松本アニメ」は『ハーロック』『ヤマト2』『スタージンガー』『999』と4本もある。男子玩具史上におけるロボットの地位をスーパーカーや宇宙戦艦が奪ったのは容易に想像できる。別にメカの魅力はロボットでなくとも描けるという事だろう。
 また、3ダイロボットアニメがいずれも「変形メカ」である事にも注目したい。3段変形などの新機軸は試みられているものの、前2年間に試された数々のアイディアに比べると、既に行き詰まりが見えるというのは厳しすぎる評価だろうか。
 だが、敢えて極言すれば「スーパーロボットものの黄金期」というのは76~77年のたった2年間、より正確に言えば1年半だけだとも言えるのだ!
 また、この時期の特徴としてリバイバルブームが挙げられる。『ヤマト』自体もそうだが『新エースをねらえ!』『新巨人の星』『ガッチャマンII』など、過去のヒット作の続編が相次いだのだ。『ガッチャマンII』に顕著だが、前作よりもやや上の年齢、子供というよりは「アニメファン」を見越した作りになっている。
 これは推測でしかないが、ヤマトブームや『スターウォーズ』の公開などという状況下で、「ロボットもの」が「子供っぽい」と避けられだしたのかも知れない。

●1979年
 前年に続き、新番組は『ガンダム』『ダルタニアス』『ゴーディアン』の3本のみ。スーパーカーブームは既に去り、松本人気もピークを過ぎたが『サイボーグ009』や『ブルーノア』『タンサー5』など、非ロボット系SF・メカアニメの模索が続く。
 こうして考えてみると『ガンダム』における「兵器としてのロボット」とは「スーパーロボットに対するアンチテーゼ」として生まれたのではなく、「ロボットもの」の行き詰まりの中で「多種多様な兵装を取り替える」というセールスポイントがもたらした必然なのかも知れない。この冬の時代に生き残った『ダルタニアス』も『ゴーディアン』も、「動物型メカとの合体」や「大中小の入れ子構造」など、これまでにない魅力をアピールしたものなのだし。
『ザ・ウルトラマン』が始まったり、『アルプスの少女ハイジ』が劇場公開されたりと、リバイバル作品はまだ元気。『999』や『カリオストロの城』などもあり、アニメブームとしては活況なのだが、当時はアニメファンにとってもロボットアニメはむしろ「日陰の存在」だったのではないか。

●1980年
 リバイバルブームの流れに乗った『鉄人28号』(いわゆる「太陽の使者」)も含め、新たに始まった番組は5本。参考までにこの年『鉄腕アトム』もリメイクされている
『イデオン』『トライダー』の他、宇宙移民ネタを導入した『ゴッドシグマ』や、メカ戦よりもドラマ性に重きを置いた『バルディオス』など、いわゆる「スーパーロボット」であっても多分に「アニメファン」を意識し、ひねった作品が当たり前になっていく。

●1981年
『ゴッドマーズ』『ゴールドライタン』『ゴライオン』『ゴーショーグン』と、やたらと「ゴ」の字が多い年。これに『ダイオージャ』『ブライガー』『ダグラム』を加えた7本がこの年にスタートしたロボットアニメ。数で言えば77年に匹敵する。『ヤットデタマン』まで含めればそれ以上だ。
 松本アニメブームも下火となり(ただし、この年『1000年女王』、翌年『無限軌道SSX』がある)、それに呼応するかのようにロボットアニメの数が増え始めた。ロボットを隠れ蓑にして年長のアニメファンを意識した作品やいわゆるリアルロボットものなど、この後80年代を席巻する駒が出そろった年である。「ロボットアニメの黄金時代」というものがあったとしたら、70年代ではなく、むしろここから始まる3年半なのではないか?

●1982年
『マクロス』が始まる。その他『レインボーマン』『バクシンガー』『ザブングル』『ダイラガー』『アクロバンチ』の計6本。これに『イッパツマン』を加えてもいいだろう。
『無限軌道SSX』や『スペースコブラ』『テクノボイジャー』など非ロボットのメカ・SFアニメもまだ模索されているが、再び主流はロボットものに移りつつある。

●1983年
 81年からの流れが爆発する年である。この年にスタートしたロボットアニメは何と11本! 以下に列挙すると『オーガス』『ボトムズ』『ダンバイン』『モスピーダ』『ドルバック』『バイファム』『スラングル』『サスライガー』『ゴーバリアン』『アルベガス』『プラレス3四郎』。
 このリストを見てまず浮かぶのが『マクロス』の影響だ。多数のプラモメーカーがスポンサーとして参戦し、合体メカが減少した一方で変形メカは増加傾向にある。
 また『アルベガス』は当時「リアルロボットものに対して、原典回帰したストレートな面白さを狙う」という触れ込みだった。それを考えれば、この11本のほとんど全てが「リアルロボブーム」、そして「ロボットプラモ」ブームの影響下にあるとも言える。俗に言う「スーパーロボット全盛期」よりも「リアルロボブーム」の方が業界に与えた影響は大だったのではないだろうか。タミヤは別にして、バンダイ・タカラ・イマイ・アリイ・アオシマ・グンゼ・学研など主立った模型メーカーがこぞって名乗りを上げているのである。
 ただし、そのプラモバブルの陰で『ザンボット』以降『ダンバイン』までを提供してきた玩具メーカーのクローバーが倒産する。これは、翌年にいきなり訪れる黄昏の前兆だったのだ。

●1984年
 数だけで言えば9本が開始している。前年ほどではないが好調に見えるだろう。だが、それでも84年は落日の年、沈み行く太陽の鮮やかさの年なのだ。
『ガルビオン』は製作会社の倒産により打ち切り。同じスポンサーを頂く『サザンクロス』も23話という短命で終わり「超時空シリーズ」は終焉を迎える。『マジンガーZ』以来毎年続いてきた東映動画製作のロボットアニメも『レザリオン』を最後に中断する事になった。『ダグラム』以降積極的にスポンサードしてきたタカラもこの年の『ゴーグ』と『ガリアン』の2作品以降この路線から手を引く事になる。『ガラット』『ゴッドマジンガー』も徒花に終わり、西部劇やファンタジーなど常に新たな方向性を模索していた富野監督もこの年の『エルガイム』の後、『ガンダム』に回帰してしまう。
 84年に始まった作品で「新たなもの」として翌年に繋がったのは「スタジオぴえろのロボットもの」としての『ビスマルク』だけ。
 前年のクローバーに続いてタカトクトイスも倒産。同社が『マクロス』のスポンサーだった事を考えると、感慨深いものがある。
 81年の『Dr.スランプ』『うる星やつら』あたりを源流とする「人気漫画のアニメ化」の流れが83~4年の『キン肉マン』『北斗の拳』『ウイングマン』などでロボットアニメの市場を浸食しつつあった。

●1985年
 新番組は5本と半減する。『飛影』『レイズナー』『ダンクーガ』、そして『Zガンダム』と『トランスフォーマー』だ。『Z』と『TF』はこの後80年代後半を象徴する事になる。それまでの試行錯誤の末にたどり着いた「保守」としての『ガンダム』と、今後数年間に渡って新たな「本流」となる『TF』、だ。
 前半と後半で作品カラーを大きく変えた『レイズナー』、ガジェット・ギミックはスーパーロボット的だが、軍隊描写に力を入れた『ダンクーガ』、超常的な設定でありながら敵のロボットは量産型の『飛影』など、「スーパーロボット」と「リアルロボット」、双方の持ち味を取り入れようとしている作品が多い。前年の『レザリオン』にも見られた傾向だが、これはどちらの方法論も行き詰まってしまったからなのかも知れない。
 また、この頃からOVAが多数リリースされるようになり「マニアックなロボットもの」も「原典回帰を企図したスーパーロボット」もむしろそちらで、限定された一部ファン向けに作られるようになる。『マジンガーZ』から約10年で、ロボットアニメというのは既に袋小路に入り込み、閉塞してしまったのではないか。

●1986~7年
 86年は『ガンダムZZ』『TF2010』『マシンロボ』の3本のみ、翌年も『ドラグナー』『TFヘッドマスター』『バトルハッカーズ』と、ごく少数の固定枠だけで細々とロボットアニメは継承されていく。87年の『ジリオン』や『ビックリマン』に、トライチャージャーやヘラクライストが出てくるとは言え、ロボットものに数えるのは無理があるだろう。
 その一方で『めぞん一刻』『タッチ』『奇面組』などのマンガ原作の勢力は未だ強く、アニメブームそのものは活況を呈している。『宇宙船サジタリウス』『ワンダービートS』など、玩具メーカー以外の会社が提供として加わってきたのもブームの顕れと言える。そんな中で『ドラゴンボール』の肉弾アクション、『聖闘士星矢』の鎧ヒーローの人気は着実にロボットの地位を奪っていった。また、『鬼太郎』『オバQ』『赤影』『仮面ライダーBlack』など、ちょっとしたリバイバルブームが起きる。状況は奇妙に78~79年に似ているようにも思える。
 83年頃の「リアルロボットバブル」を別にすると、70年代末といいこの時期といい、「アニメブームになるとロボットアニメはむしろ下火になる」傾向があるのかも知れない。

●1988年
『TF超神マスターフォース』と『ワタル』の2本のみ。何と、バンダイがロボットアニメから完全に撤退するという信じられない事態が起きる。実は劇場版の『逆襲のシャア』やビデオの『パトレイバー』『トップをねらえ!』『ゼオライマー』などに流れが移っているのだが、プラモ展開した『逆シャア』『パトレイバー』はともかく、バンダイ製のアニメロボット玩具は姿を消す。
 ロボットに代わってブラウン管を独占したのは『星矢』『サムライトルーパー』『ボーグマン』などの鎧ヒーローとマンガ原作もの。スーパーカーブームの時と同様、「ロボットアニメ」の魅力と思われているものがロボット固有のものではなく、他のガジェットでも代替可能だという事か。

●1989~90年
『TFビクトリー』『グランゾート』に加えて『獣神ライガー』と『パトレイバー』が参入するが、90年にはまた『TF』の流れを汲み『ライガー』の放送枠を継承した『エクスカイザー』と、『ワタル2』のみとなり、メディアミックスの一環としてTV化された『パトレイバー』は新たな流れを生まなかった。
 この時期、むしろ大きな潮流としてはSDガンダムを始祖とし、『ワタル』のヒットを踏まえたSDヒーローの爆発的ブームだろう。ロボットアニメ的なものとしては『ラムネ&40』『RPG伝説ヘポイ』があり、その他にも鎧ヒーローの系譜に連なる『桃太郎伝説』『てやんでぇ』、その他『聖戦士ロビンJr』『ムサシロード』がある。前述の『ワタル2』も含めれば90年一年で7本という盛況だ。この時期『ドラゴンクエスト』や『ピグマリオ』のアニメ化もあり、ファミコンゲーム、ファンタジーRPGブームの影響はアニメにも顕著だ。『パトレイバー』のみ例外的だが、ロボットアニメの中にも「テクノロジー・科学志向」は薄れ、意思をもったロボットや「伝説の勇者に与えられる武器」としてのロボットが目立つようになっている。
(単なる思いつきだが、2頭身ヒーローブームの背後にはSDガンダムのヒットのみではなく、ファミコンゲーム画面上で簡略化されて表現されるキャラクターの影響もあるのではないか)

●1991年
 SDヒーローの増殖は僅か一年で終わりを告げる。元祖である『ワタル』の枠が『サイバーフォーミュラ』になったのがその象徴と言えるだろう。
 ちょうどスーパーカーブーム終焉と同じように、SDや鎧ヒーローの凋落を補うかのように再びロボットアニメに陽が当たり始める。「勇者シリーズ」第2作『ファイバード』に加えて『ライジンオー』『ゲッターロボ號』が開始したのだ。しかし、前述の『サイバーF』や『セイバーキッズ』、遅れてきた鎧ヒーロー『メタルジャック』などが存在し、ロボットアニメも往時のような盛り上がりを見せていない。『ファイバード』『ライジンオー』『ゲッター號』の三作品がそれぞれタカラ・トミー・バンダイ系列のユタカのスポンサードを受けているが、70年代のブームに参入した玩具メーカーの多くは既に倒産し、80年代のバブルを支えた模型メーカーの大半も動かない。TVアニメというハイリスクなものに手を出せるほど、業界全体に余裕がないという事なのだろう。
 そんな中で『ガンダム』が劇場用で『F91』、OVAで『0083』と固定ファンを睨みつつ継続していく。

●1992年
 勇者・エルドランは『ダ・ガーン』『ガンバルガー』で継続。『ゲッター號』は終了するが、その後を埋めるかのようにやはりリバイバル路線の『鉄人28号FX』がスタートする(ただし、放送枠・製作会社・スポンサーいずれの面から見ても『ゲッター號』とは無関係。単に数の帳尻が合っているだけ)。
 また、これもリバイバルというにはやや奇妙だが『テッカマンブレード』が始まる。ロボットアニメ的な商品を、ロボットという設定以外でどうにかできないかという模索の意図が感じられる。
 一方、OVAでも『ジャイアントロボ』や『マクロスII』などが登場。OVA市場も徐々に「続編」「リメイクモノ」などの安全パイ狙いが目立つようになっていったように思うのは私だけか?

●1993年
 勇者は『マイトガイン』、エルドランはこれがシリーズ最終作となる『ゴウザウラー』。そして、ここ数年OVAや映画で繋いできた『ガンダム』が『Vガンダム』という形でTVに復帰。周辺作品としては『アイアンリーガー』も挙げられる。
 85年頃同様『ガンダム』と『TF(の流れを汲む勇者シリーズ)』という2大定番シリーズが肩を並べる体勢という訳だ。この後、この2大定番に加えて、シリーズ化しない企画が散発するという状況が数年間続いていく。

●1994年
『ジェイデッカー』『Gガンダム』と、2大定番枠はそれぞれ新たな方向を模索しつつも継続。『レッドバロン』『マクロス7』などのリメイクものに加えて、SDヒーローが不意に復活した『リューナイト』や、変なメディアミックス『ヤマトタケル』など、突発的に作品数が増加傾向を見せる。92年の『セーラームーン』から始まった美少女ヒーローブームの中で『レイアース』がロボットものの要素を取り入れていた。

●1995~7年
 2大定番も96年に『ガンダム』が『ガンダムX』で、97年に勇者が『ガオガイガー』を最後に休止する事になる。実質的に「定番ロボットアニメ」の枠が消滅したとも言える。そんな中で『エヴァンゲリオン』ブームが起き、『ナデシコ』のようにロボットアニメ自体をメタに扱ったものも登場。また『ラムネ&40炎』『超ワタル』など80年代末や90年代の作品のリメイクが試みられるなど、いわゆる「コンテンツ不足」が目立ちだす一方、深夜アニメが始まってソフトウェアの需要は拡大していく(98年には『バイファム13』なんてのもあった)。
 なお、この3年間の番組開始本数は以下の通り。
・95年=3本『ゴルドラン』『ガンダムW』『エヴァ』
・96年=5本『ダグオン』『ガンダムX』『エスカフローネ』『ラムネ&40炎』『ナデシコ』
・97年=5本『ガオガイガー』『ヒカリアン』『超ワタル』『ビーストウォーズ』『エーアガイツ』

●総括(?)
 こうして資料を見ながらまとめてみると、漠然と考えていた印象を裏切られた部分がいくつかある。例えば、太字で強調したように「スーパーロボット」のブームなんてものはごく短期間の爆発的増殖であり、「歴史」や「伝統」なんて形成される暇もなく行き詰まっていたという事。いわゆる「リアルロボブーム」時の方が作品数は多かった事、「ロボットアニメならではの魅力」と思われているものの大半が他の素材(宇宙戦艦・スーパーカー・聖衣系プロテクター等)でも表現可能らしいという事などだ。
 あるいは、人によっては「ヤマトはロボットアニメブームのさなかに非ロボットものだったから本放送当時ヒットしなかった」「ガンダムは全盛期にあったスーパーロボットに対するアンチテーゼとして生まれた」というような勘違いをしているかも知れない。
 普段何気なく受け入れている「正統派熱血ロボットアニメ」を中心とした、いわば「熱血史観」というのは事実に基づかない、後付の印象で形成された錯覚の産物なのではないだろうか……と思ってしまった。

※主な参考文献
『B-club』100号(バンダイ)
『マジンガーZ解体新書 鉄の城』(講談社)
『スーパーロボット画報』(竹書房)
『アニメ新世紀王道秘伝書』(徳間書店)

(本項は2001年1月に旧サイトにアップした記事をそのまま再掲したものです)

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メガネっ娘萌えのルーツを探る(旧記事再掲)

※本稿では作品の年代は確認できた資料によってコミックス奥付の日付と雑誌連載開始を混在させているため、厳密さには欠ける事をお断りします。また、本稿全体が網羅的に調査した結果に基づくものではなく、印象的な一部の作品からのピックアップや当時の記憶に頼った不正確なものです。不備や勘違いがあればどしどし指摘してください。むしろ、これをたたき台にして誰か他の方がより緻密で高度な研究をしてくれる事を期待します(正直、私の手には余るので)。
 また本文中では敬称を省略し、作品タイトルなども通じると判断したものについては正式名称ではなく、略称・通称を用いています。

●序
 事の起こりは『アニレオン!』3巻執筆時に「メガネっ娘萌え」のルーツを調べた時に感じた疑問である。

 典型的な(悪く言えば工夫のないステロタイプな)メガネっ娘キャラというのは、おおよそ三つの類型に分類する事ができる。
 まず、「真面目な委員長タイプ」。教師や医師などの、知的でお堅い職業に就いている大人の女性キャラはこのタイプのバリエーションと言っていいだろう。
 次の「マニアックな趣味を持つ広義のオタク娘タイプ」は明るくお喋りなキャラが多く、素っ頓狂な性格も珍しくない。マッドサイエンティストやエンジニア、メカフェチなどもこの路線に含められる。
 そして「病弱でおとなしい文学少女タイプ」。だが、定番中の定番と思われているこのタイプだが、考えてみると意外に古典的な実例が思い当たらないのだ。
 その疑問がきっかけで、表題のような事が気になってしまったのである。果たして、本当に「病弱な文学少女のメガネっ娘」は古典的なステレオタイプなのだろうか?
 なお、以下のテキストでは少女マンガにまったく言及していないが、これは筆者がその方面に疎いため。またPC用成人向けを含むゲームについても当時のものを通史的に確認できる資料が入手できなかったため、踏みこんで取り上げる事ができなかった。これらのファクターを踏まえて考察すればまた別の結論が出るはずである。更なる資料を取り入れた上での、より高度な考察を成す後継者が現れる事を望むものである。


●80年代前半~中盤のメガネっ娘事情
 70年代末の「ヤマトブーム」、そして『機動戦士ガンダム』の劇場公開、さらに『うる星やつら』のヒット、アニメ雑誌の相次ぐ創刊など、現在に至るオタク文化・オタク産業の流れは80年代初頭に方向付けられたと言える。
 当時のオタクシーンをリードしていたのは、その『うる星やつら』に代表される少年サンデーを中心とする小学館系という印象が私にはある。高橋留美子に続いて島本和彦・中津賢也・安永航一郎・鈴宮和由などマンガ・アニメファン出身の作家を多数輩出し、群衆シーンやネーミングでのお遊び、コマ欄外の書き込みなど時代の空気を形成し、テレビアニメなどにも大きな影響を与えた--というよりも、相互に影響しあっていたというべきか。
 だが、振り返ってみると当時の「サンデー」系の作品には意外なくらいこれと言ったレギュラー級メガネっ娘がいない。現在に至るオタク文化の重要な礎石である『うる星やつら』には、あれだけ女の子が登場していながらメガネっ娘はゼロなのだ。同じ作者の『めぞん一刻』でもレギュラーにメガネ常用キャラはおらず、一話きりのゲスト・大口小夏が登場するに留まっている。

 マンガだけではなく、当時はアニメにおいても現在のようにメガネっ娘が定番化していない。
 当時の人気アニメでメガネっ娘キャラといえば『超時空要塞マクロス』(82年10月~)と『超時空世紀オーガス』(83年)だが、そもそも『マクロス』のブリッジ三人娘自体が『軽井沢シンドローム』(82年6月第1巻初版)からのイタダキという側面があり、しかもレギュラーではあるが特にエピソードもない脇役である。また同シリーズの第三作『超時空騎団サザンクロス』(84年)ではキャラデザイナー交替も関係あるのか、メガネっ娘は姿を消す。その後、80年代TVアニメでのメガネっ娘といえば『ガンダムZZ』(86年)のミリィ・チルダーくらいだろうか。レギュラーではないが、当時のアニメのメガネっ娘事情で最も注目に値するのは『ミンキーモモ』(82年)で「メガネでチャームアップ」という女の子がメガネをかけて魅力的になる、というエピソードが存在する事だろう。
 少年少女13人が主人公の『銀河漂流バイファム』(83年)にもメガネっ娘はいない。そして、放送終了後85年に制作されたOVAでは文学少女のペンチがメガネを着用するが、「夢見がちなオタクの女の子」を悪趣味にカリカチュアした、イタいキャラとしてのデザインであり、決して好意的なものではない。

 また、OVA初期のヒット作であり、その後シリーズ化する『ガルフォース』(86年)では、メインキャラが美女美少女ばかり7人というシフトでありながら、その中にメガネ使用者はひとりもいない。
 さらに言えばある意味で一世を風靡し、パソゲー普及以前のオタクエロのスタンダードとも言えるアダルトアニメ「くりぃむレモン」(84年シリーズ開始)にもメガネっ娘は不在なのである! 「くりぃむレモン」でメガネっ娘が扱われるのは、87年の路線変更以降、しかも森山塔などのマンガ原作作品からだ(ただし、これは逆に言えば80年代中頃までには成年向け美少女マンガではメガネっ娘が珍しくなかったという事でもある。また、85年頃の雑誌『モデルグラフィックス』での美少女アクションフィギュアを用いた企画『彗星戦隊フルーティV』の中にはちゃんとひとりメガネキャラがいる)。

 マンガやアニメから外へ目を向けると、82年頃はタレント・斎藤ゆう子の全盛期でもある。お笑いタレントで必ずしも美人という扱いではないが、メガネをかけた女性がテレビに頻繁に登場し、好意的に受け止められていた時代である。「お喋りでけたたましい、陽気なメガネっ娘」という定番イメージには、彼女の影響も大きいのではないだろうか。
 また、4人のうちひとりをキャラ立てのためにメガネっ娘にしたグループ・セイントフォーのデビューが84年。大して人気があったわけではないが、メガネっ娘をアイドルにしたという一点で未だに語られるグループである。

 しかし、80年代最大のメガネっ娘と言えば、実はSF作家の新井素子かも知れない。
 78年にデビューし、80年にはコバルト文庫に進出して知名度もアップした彼女は、当時は単なる新人・若手作家というだけでなく、ある種SF界(ひいてはオタク界)のアイドル的存在であり、生身の個人を越えた「キャラクター」だった。例えば雑誌「バラエティ」に80年(?)から連載されていた『ひでおと素子の愛の交換日記』あたりにそれは顕著だろう。
 冗談抜きで、現在のメガネっ娘キャラの大きなルーツは彼女なのではないかとも思う。

 では、隆盛だったサンデー系で手薄だとしたら、当時のメガネっ娘鉱脈はどこだったのか。私はそれを「少年ジャンプ」とヤング誌だったのではないかと見ている。


●「少年ジャンプ」のメガネっ娘
 80年代の「少年ジャンプ」には「4人目はメガネっ娘の法則」というのがある。いや、法則とは言っても3例あるのを私が見つけて勝手にそう呼んでいるだけなのだが。
 まず『キャッツアイ』(82年4月第1巻初版)。メインの3姉妹に続いて登場した浅谷光子刑事がメガネキャラである。主人公の同僚であり、メインヒロインの恋のライバルでもある堂々たる主要キャラ。職務に忠実で有能な、いわば「正統派委員長系メガネっ娘」だが、実は初期エピソードではサングラスをかけていたり、メガネを外していたりしているシーンが意外に多い。初めのうち、彼女のメガネはキャラクター性の一部というよりも「有能で生真面目でクール」という事を表現するための小道具だったのかも知れない。ただし5巻(83年6月)収録のエピソードでは「メガネがないとほとんど見えない」というエピソードがある。浅谷刑事は作中で「メガネっ娘」へと進化したキャラとも言えるかも知れない。

 次に『ウイングマン』(83年8月第1巻初版)の布沢久美子。彼女の登場は3巻(83年12月)からで、登場そのものはセイギマンの桃子よりも一話早いが、作中での扱いを考えるとアオイ・美紅・桃子に続く4番手ヒロインと言うべきだろう。
 久美子のメガネは初登場時には不透明で描かれていて、メガネを外して初めて主人公に美少女と認識されている。また、後にウイングガールズの一員となった時も戦闘コスチュームではメガネ無しになっている点にも注目したい(ただし、メガネ=ブスという扱いにはなっていない)。
 作中における久美子のポジションはサブヒロインと呼ぶにも微妙で、むしろ「変身ヒーローの正体を探ろうとするお邪魔キャラ」「ヒーローの周りをちょろちょろする微妙なポジションの民間人」というポジションを女の子にしたものだろう。広い意味では「特殊な趣味に熱中しているオタクタイプ」キャラとも言える。
 桃子の他にも後発のくるみやりろに喰われ、終盤に敵に騙されるエピソードまでは出番そのものが少なくなる。また、そのエピソードでもクラスの男子からは恋愛対象と思われていないような描写があり、まだまだメガネっ娘が「定番」であるとは認識されていないようだ。

「4人目はメガネっ娘の法則」の最後のひとつは『きまぐれオレンジロード』(84年10月1巻)である。ヒロインのまどかとひかる、そして主人公の双子の妹くるみ・まなみ。この春日まなみがメガネっ娘である。
 彼女は第一話の時点の友人が主人公に「紹介しろ」と迫るなど、最初から魅力的な女の子であるという前提で描かれている。ただし、もうひとりの妹・くるみに比べてもスポットが当たるエピソードは少なく、出番そのものは多いが、あくまでも「立派な脇役」感が強い。
 なお、このまなみだがメガネにポニーテールというどちらかといえば子供っぽさを思わせるビジュアルでありながら、しっかり者で一家の母親代わりという、メガネっ娘がパターン化した現在から振り返ってみるとなかなかユニークなキャラクターである。

 半ば冗談で「4人目はメガネっ娘の法則」と書いたが、要するにこの時代に初めて少年マンガでレギュラーの女の子を4人も5人も出すような手法が一般化し、その中ではバリエーションのひとつとしてメガネっ娘も許容されたという事なのだろう。

「少年ジャンプのメガネっ娘」という事で、さらに重要なキャラクターを三人ほど挙げておきたい。

 まず、言うまでもない『Dr.スランプ』(80年8月第1巻)の則巻アラレである。ギャグマンガという事もあり、早々に頭身が縮まってしまったが、当初の設定では博士が「美女」として作ったロボットという事を忘れてはいけない。何より、大ヒットマンガの主人公がメガネっ娘、しかもギャグキャラではあっても不細工ではなく魅力的な外見の持ち主という事で、世間に「メガネの女の子もアリ」という風潮を広めたなど、影響は大きい。

 もうひとりはぐっとマイナーになるがゴルフマンガ『ホールインワン』(78年7月第1巻)の岡本ちゃんである。固有のエピソードどころかフルネームさえも不詳の、単なるリアクション係(兼パンツ見せ要員)とでもいうべき脇役中の脇役ではあるが、画面への登場は多く、コミックスの2巻と6巻のカバーでは主要キャラ集合イラストに加わっている。最終回でコンタクトレンズになる事から、必ずしも肯定的な意味でのメガネっ娘ではないが、2年以上に渡る長期連載、しかも『Dr.スランプ』以前に「メガネをかけたセクシー美人」がレギュラーキャラだった事はひょっとしたら注目すべき事かも知れない。

 そして『ハイスクール!奇面組』8巻(84年12月)から登場する意地川累だ。彼女は「メガネをかけていて不細工だが外すと実は……」というキャラとして描かれ、作者自身も欄外で「3億年前のパターン」と言っている。しかし、ここまでの例でも想像できるように「メガネを取ったら実は美人」というのは、この時点では決して一般的とは言えない。他誌の作品にまで目を向けてもパッと思い出すのは『翔んだカップル』(78年)の杉村くらいだろう。作者の新沢基栄が本来少女マンガ志望だった事はコミックス内でも触れられているが、少女マンガにおいては実はとっくの昔に「メガネをかけている女の子にとっては、メガネをかけている状態こそが肯定すべきありのままの姿」というテーゼが成立しているという説もある(詳しくはこのサイト参照)。
 要するに、この時点で「事実に基づかない、誤解された(あるいは意図的にズラした)パターンの再生産」が行われているのである。


●ヤング誌のメガネっ娘
 80年代前半というと「ビッグコミック」「ヤングコミック」に代表されるような従来の「大人向け」のマンガ雑誌と少年誌の間を埋める、20前後の大学生~若い社会人をターゲットにしたヤング誌が次々に世に出た時期でもある。79年に「ヤングジャンプ」、80年には「ヤングマガジン」と「ビッグコミックスピリッツ」、82年には「ヤングチャンピオン」(現在のものではなく、一度休刊した初代)が創刊されている。
 そして、そこには多数のメガネっ娘が散見されるのだ。

 まず前述の『軽井沢シンドローム』。この作品では後に多数の女性キャラが登場し、当初のヒロインであるメガネっ娘・松沼薫の影はやや薄くなるが、第一話の時点ではメインヒロインがメガネ着用という当時としては希有な例である。作者のたがみよしひさは「ヤングチャンピオン」の『我が名は狼』(83年8月第1巻)でも第一話のサブゲストヒロイン、3話のメインヒロインにメガネっ娘を登場させており、さらには後に『なあばすぶれいくだうん』(88年連載開始)でもメガネっ娘がメイン(かつ連載当初は唯一の女性レギュラー)と、実はメガネっ娘萌え的にはかなり重要な漫画家ではないだろうか。
 この他にも『ネコじゃないモン!』(83年2月第1巻)の五月、『ザ・サムライ』(84年1月第1巻)の綾杉先生などメインでないとはいえ、一話からレギュラーで登場するメガネっ娘は少なくない。『BE FREE!』(84年10月第1巻)の島本圭子など当初のダブルヒロインの一方で、全編を通すとメインと言っていいポジションである。

 なぜ、ヤング誌ではメガネっ娘の登場率が高かったのだろうか?
 検証不充分な単なる思いつきに近い仮説だが、ひとつには初期のヤング誌の傾向として、少年マンガのラブコメブームを踏まえ、『めぞん』や『軽シン』に代表される「セックスや結婚も視野に含んだラブストーリー、ラブコメ」が重視された事が原因と考えられる。そこで登用されたのが、たがみよしひさや矢野健太郎のような(適当な言葉ではないが)「少女マンガにも通じた若手漫画家」であり、少女マンガでは昔から使われていた「メガネをかけた女性キャラ」が抵抗なく登場してきたのではないだろうか。
 もちろん、前項で挙げたように女性キャラの複数化によるキャラのバリエーション付けや、現実世界でメガネをかけた女性が以前ほど否定的に見られなくなった事などの影響もあるだろう。このあたりは、更なる研究が待たれるところである。

 しかし、当時の「ジャンプ」やヤング誌のキャラクターを見ても「堅い職業でマジメ」な委員長タイプや、広義のオタクタイプはいても、病弱な文学少女は影も形も見あたらない。
『オレンジロード』4巻にゲストヒロインとしてメガネ&そばかすで難病で手術を控えている小田久美子というキャラが登場するが、難病を患っていると言っても弱々しい印象はなく、むしろ口数が多くて陽気な「斎藤ゆう子・大口小夏系」キャラなのだ。
 ひとつ考えられるのは、現在「文学少女系メガネっ娘」のイメージとして想起される「おとなしく、控えめだが芯は強い」「引っ込み思案で守られるタイプ」というのは、少年マンガでは「元気で快活」と並んでメインヒロインに与えられるキャラクター性である。しかも元気系とは違い、控えめタイプはメインヒロインにしない事にはスポットを当てにくい、レギュラーの脇キャラとしては扱いづらいキャラではないか。
 複数ヒロインの中で「生真面目できつい」や「過度におしゃべりでけたたましい」などサブヒロインには個性の強化・イメージの鮮明化のためにメガネをかけさせる事はできても、メインヒロインにメガネをかけさせるのは、当時としてはまだ冒険だったのだろう。


●そして90年代~ゲームとテレビアニメでのメガネっ娘~
 90年代になると、テレビアニメでもメガネっ娘が頻繁に登場するようになる。まず、代表的なキャラは『ラムネ&40』(90年)のココアだろう。注目すべきは、作中でのココアの扱いである。初期の彼女は「メガネをかけている時は女性的な魅力に乏しい天然ボケのメカマニアだが、外すと美少女」という描写をなされており、そのギャップがギャグとして描かれていた(新沢基栄が6年も前に3億年前のパターンと呼んだ幻影が、アニメではまだ通用すると思われていたのである!)。さらに「ラムネ-ミルク」「ダ・サイダー-レスカ」というカップリングが最初から固められている中で「余り」というポジションである。それが、話が進み、さらにはOVAなどで続編が作られていく課程で「チャーミングなメガネっ娘」という風に描写が変化している。彼女の扱いの変化そのものが、この時代の業界におけるメガネっ娘受容のプロセスの反映と言えるかも知れない。
 また、エルドランシリーズの一作目『絶対無敵ライジンオー』(91年)ではひとクラスまるごとレギュラーという登場人物が多い作品だが、その中にメガネっ娘は存在しない。しかし、同枠第二作『元気爆発ガンバルガー』(92年)では委員長系の武田桂、続く『熱血最強ゴウザウラー』(93年)ではマッドサイエンティスト系の教授とメガネっ娘がレギュラー入りしている。同時期の『鉄人28号FX』(92年)でもレギュラーキャラの中に小柄・ポニーテール・おしゃべりでドジという「斎藤ゆう子路線」のメガネっ娘・双葉が登場し、後半では「いわゆる正統派」ヒロインが海外渡航してしまったため、事実上のメインヒロインに昇格している。
 また、エンジニアのココアやアナリスト兼発明家タイプの教授など、ロボットアニメなどで従来ならばメガネの男性キャラが担当していた役割を女性キャラにスライドさせた事も、メガネっ娘登場率のアップに影響していると思われる。『鉄人FX』の双葉も、『コンバトラー』や『ゴレンジャー』『ガッチャマン』に当てはめれば小介などに相当する「子供キャラ」のポジションなのだ。
 この時代以降は、メガネっ娘は定番化したと見なしていいだろう。

 しかし、この時点でも「真面目な委員長」や「変な知性派(オタク)」はいても「おとなしい文学少女」の姿は見えてこない。このタイプのメガネっ娘が登場するのは、ゲームの世界だったのである。
 92年に発売されたPCゲーム『卒業』に登場する中本静。たった10年前で、他の路線に比べるとかなり新しいが、ひょっとしたらこれが「病弱気弱文学少女メガネっ娘」のルーツなのかも知れない。
 この中本と『ときめきメモリアル』(94年)の如月未緒によって一気に築き上げられたのが「病弱文学少女のメガネっ娘」というステロタイプ。その後、『トゥルーラブストーリー』や『同級生2』など後発のゲームによって短期間のうちに一般化した--ちょっと感覚に反する仮説だが、今回調べた限りではそれ以前の例が見つからなかったのだ。
 それこそ少女マンガあたりに実例があるのかも知れないが、少年マンガやヤング誌、アニメなどにはそれらしいキャラがなく、少女マンガに源流があるとしても、それがどうしていきなりPCゲームというジャンルに現れたのか、その「感染経路」が不明なのである。

 では、仮に『卒業』の中本が「病弱文学少女」のルーツだったとして、どうしてこのタイプのキャラが生じたのかを考えてみたい。
 まず『卒業』は「極端に偏ったパラメータを持つ5人の女の子を育成するゲーム」である。当然、偏ったパラメータのバリエーションとして「知性に優れるが体力面では劣る」というタイプは考えられる。さらに『卒業』の5人のキャラクターはネーミングやポジションがザ・ドリフターズに準えられている。中本=メガネというわけだ。
 さらに「病弱な文学少女のメガネっ娘」以前から「病弱な文学少女」は存在する。それこそ『風立ちぬ』のようなサナトリウムものや、外出が禁じられて本だけが友達の深窓の令嬢など。そして「メガネをかけた知的な女の子」というカテゴリーも存在する。それこそキャラクターとしての新井素子あたりが典型だ。
 つまり「メガネをかけた病弱な文学少女」というパターンは「病弱な文学少女」と「メガネの文学少女」というふたつのイメージが合体したものという可能性がある。元になったふたつのパターンが古典的であったため、融合したもの自体は実際には新しいものでありながら「昔から存在しているパターン」のように誤認されたのではないだろうか。
 また、「おとなしくて引っ込み思案な文学少女というのはサブヒロインとしては扱いづらい」と述べたが、ゲームという形式においては複数のヒロインをシステム上同列に扱う事は容易である。即ち、マンガやアニメといったリニアな物語のメディアよりも「病弱文学少女メガネっ娘」を登場させやすい形式なのだ。

 一応、本稿の結論として「病弱文学少女メガネっ娘」は10年かそこらの歴史しかない新種であり、それが昔からの定番中の定番に見えるのは「キレンジャーの錯誤(目立った一例が、そのカテゴリー全体の共通項のように扱われる事。オレ造語)」である、とする。
 しかし、既に述べた通り、これは実感とは大きくかけ離れたものである。私自身、『ときメモ』の如月未緒を見た時は「病弱な文学少女のメガネっ娘なんてパターンだなぁ」と思ったのだから。
 恐らく、本稿では何か重要なファクターを見落としているのだろう。繰り返しになるが、誰かがより深い研究をして、この問題についてもっと妥当な説を唱える事を期待したい。

 最後に余談だが、とり・みきの『るんるんカンパニー』(81年)というマンガがある。この作品では主人公は「知性派のスレンダー美人」「セクシーな空手使い」「ドジで小柄なマスコット」という三人娘だが、この中でメガネをかけているのが「セクシーな空手使い」なのだ。現在のセンスからすると知性派でもドジっ娘でもなく、よりによってグラマーでアクション担当のキャラにメガネをかけさせるというのはかなり特異なセンスだが、メガネっ娘のパターンが一般化していなかった当時では、別に違和感を覚えるものではなかったのだ。
『オレンジロード』のくるみの例といい、実は近年にメガネっ娘が定番化した事によって、逆に「メガネをかけた女性キャラ」というのは懐の深さを失い、広いけれども痩せた土壌になってしまったのではないだろうか。
 フィクションの送り手として、私自身反省と用心が必要だ。

(本項は2003年10月に旧サイトにアップした記事をそのまま再掲したものです)

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旧記事再掲

サイト閉鎖に伴い過去のコンテンツは全て閲覧不可にしていましたが、日記はさておきいくつかのネタ話やコラムはブログ再掲してもいいのではないかと思い立ちました。
10年以上も前に書いたものであり、現在の考えとは異なる点や既に時代遅れの部分もありますが「当時の思考の記憶」として敢えてそのままアップいたします。

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2015.09.18

長くやってて思った事

 告知が遅くなってしまいましたが、HJ文庫の『ブレスレス・ハンター』『俺は天剣を掲げ/僕は飛竜と征く』、電子書籍化され配信されています。
 印刷ベースだと増刷してもペイの見込みがなく消えていくだけだった旧作にも、再び新しい読者の方々の元に届く機会が与えられるというのは、時代の恩恵ですね。売れないっ子作家でも長くやっていれば過去作はそれなりの数になりますし。
(まあ「学園ラブコメ」「現代モノ」は10年も経っちゃうと一種の「時代劇」になってしまうという問題もあったりしますが)

 前回のエントリで書いた事とも関わりますが、ネットで散見する「ラノベ語り」としてアニメ化された作品だけを俎上に乗せたり、あるいは限られた一部の傑作や異色作の話題が好きな人がいます。そういう観点に立つと、20年のキャリアがあったところで、多分葛西伸哉など視界に入っていないでしょう。
 ただ、私みたいなギリギリ低空飛行は別にしても、普通にシリーズが10巻ほど続いていてもアニメ化されていない「人気作品」なんていろいろある訳で、そういうものにほとんど言及しない「ラノベ語り」っていうのは、結局のところ「ラノベそのもの」をちゃんと見ていないんじゃないかなぁと思う事もあります。
(私見ですが、小説というのは少数のマンパワーと初期投資で動かせるフットワークの軽い媒体であるのもメリットなので、テレビアニメのようなハイコストと長い準備期間を必要とする産業とは、必ずしも相性がいい訳ではありません。「アニメになる」のは大きな成果ではあっても、基準や目標にしたらマズいんじゃないでしょうか。私がこれ言っても負け惜しみに聞こえるでしょうけど)

 でもまあ、この十数年のラノベ業界(そして日本という国)が、私のようなしぶといだけの売れないっ子作家でも「ほぼ専業」で生きていける環境だったというのは、ラノベ業界への偏見や誤解に対するカウンターの一例として一応記しておいた方がいいかも知れないと思って、このテキストを書いた次第です。
 もちろん人の縁や状況に恵まれたというのもありますし、健康体のひとり暮らしで生活の基礎コストが少なくて済んだという事もあります。完全に専業でない「ほぼ」の部分の恩恵だって少なくない訳ですから、作家としての実力を殊更に誇る気は毛頭ありませんけどね。

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2015.07.21

既に半世紀が過ぎた。

 本日をもって50歳!

 生物としての実年齢ではなく、ラノベ作家としての己を振り返ってみると、受賞から数えて24年。初めて商業出版に作家として参加した『かくもささやかな凱歌』からなら23年、最初の単独著書である『ビットウォーズ』からでも21年。
 やや大げさに言うと「人生の半分ほどを、ラノベ作家として過ごしてきた」という事になりますし、「20年以上プロのラノベ作家をやってきた」と言っても嘘にはならないでしょう。より厳しい「ほぼ専業、年に一冊以上継続的に本を出してきた」という基準でも17年のキャリアです。
 もちろん私なんぞより上には「ラノベ」という言葉が生まれる前から活躍し、今も現役バリバリのリビングレジェンドがいらっしゃいますが「ラノベレーベルの新人賞からデビューし、今でもラノベだけを書いている作家」としては、現役最古参クラスのひとりになっちゃってます。
 アニメ化されるような大ヒットとも無縁、通好みの隠れた名作としてしばしば話題に上がるようなものとも無縁ですが、運と縁と機に恵まれたおかげもあって、何とかここまでやってこられましたわ。
 この調子であと何年かでも頑張れればいいのですが。
 

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2014.12.03

『パメラパムラの不思議な一座』電子書籍配信!

ファミ通文庫から出版しました『パメラパムラの不思議な一座』がこのたび、電子書籍として1月9日よりBOOK WALKERから配信される事になりました。

惜しくもシリーズ化は叶いませんでしたが、ぽぽるちゃさんの美麗なイラストにも恵まれ、私にとっても思い出深い一冊です。
ちょっと確認してみたら出たのが2004年ですから、もう10年も前の作品になるんですねぇ……。

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2014.11.14

炎獄のアルシャーナ

公式サイトで情報が公開されたので、こちらでも告知します。

http://www2.ichijinsha.co.jp/novel/

12月に一迅社文庫から久々の新作『炎獄のアルシャーナ』が出版されます。
剣闘士の少女と失業者の若者の出会いから始まるアクション・ファンタジー、宜しくお願いいたします。

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